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毎週火曜の恒例行事

なんやかんやで徹夜する


寝る体だったりして、なんなりして、結局眠れず朝を迎える。

それが火曜日。故に寝不足であり判断能力は完全に欠如している。なにがしかの犯罪をしでかしたとしても、責任能力の点に於いて諸々免れてしまうのではないかと思えるほどには、私の頭は朦朧としている。

非常に眠りたい。出来るのであればこのままずっと眠りに就いていたい。くらいには眠い。非常に眠い。
しかし後4分後には姉を起こし元気に登校せねばならないのだ、悲しいほどに単位の足らない私の宿命と言った所だろうか。
因果応報である。

元々、学校の勉強についていけないわけではなかった。全くそんなことは無く、寧ろ熱心にオンラインゲーム活動に精を出してしまったがために、出席日数が足らなくなって単位を貰い損ねてしまっただけなのだ。
加えて、私は一人暮らしをしていた。
親の寵愛を一身に受けていたこの甘ちゃんの私に、一人暮らしを全て捌ききる力など絶無。
めんどくさければてきとーに他人に同調し、色々な物を受けた。

NHKの加入、新聞の勧誘、新しいプロバイダの契約。
諸々を唯々諾々と受けて行き、その契約の履行日や施工日、工事日がなんともまぁ不運な事に、テストの日に被ってしまったケースも多々あった。

また、ネットワークビジネスにも手を出した。20万円散財した。
思えば大きい買い物で、あのお蔭で私は社会人の切符を手に入れたと言っても過言ではない。それに彼女と知り合うきっかけも手に入れることが出来た。
そう考えれば、人生の破砕点、特異点足る物を20万円で獲得できた私は大変運がよく、お買い得…という言い方では語弊があるかも知れないが、決して金をどぶに捨てたとは思っていないほど、満足の行く“投資”だったと言えよう。

消費形態には3つある。
曰くして、
・消費
・浪費
・投資
である。
まぁ『金持ち父さんと貧乏父さん』を読んでくれれば嫌と言うほど載っているはずである。金を使役して財を成すのだ。

まぁそれは良いとして、自分にプラスになる物は投資、自分にとって何のプラスにもならない衝動的な消費が浪費、そして生活財の購入や各種保険等々、生活インフラを整えるために必要な経費を消費と言う。

投資と消費の違いは、前者は能動的に為す消費活動である。
自分を高めるために行う消費活動、簡単に言えば知的財産を濫読したいがためにお金を使うことは、恐らく投資に当たるはずである。また、資格を得るためにそう言った書籍を購入することも投資であろう。
要するにプラスになりさえすれば良いし、傍目にはプラスに映っていなくとも、恐らく自分がプラスに感じることが出来れば、それはきっと投資になるはずなのである。

そう考えると、人間考え方次第で幾らでも精神のありようを決定できるのだと気付かされる。
しかし、しかしだ。
その精神こそが一番の厄介であり足枷である。
肉体に忠実な精神の方がよっぽど良い、という経験を皆様方されたことがあるだろう。

やりたい時にやりたい事をする。寝たい時に寝て、食いたい時に食い、犯したい時に犯す。
ううん素晴らしいこの本能生活。
知的文明から全く隔絶されたこの願望を叶える桃源郷はどこに存在するのか。はたまた、そこは荒廃した土地であろうが地球上の至る所に、およそ人類の集結する8割の場所はそう言った場所なのではないかとさえ思える。
非常に男性本意な考え方ではあると思う。
まぁ色々書くと色々抵触してしまうので色々書けないが、様々な思想が交錯すると抗争が発生してしまう恐れがある。
と言うかほぼ確実に抗争は起きる。
中道でありたい、という考え方は自治厨を生み出しスレを荒らす。

肉体に忠実なら、痛みを受けた反射をそのまま返すことが出来る。
しかし理性があるのならば、その痛みに堪えなければいけない、と考えることもあるだろう。
世の中の人は、それぞれ違う尺度で違う痛みに堪えているだろう。
誰しもある程度の年を取ったら、なにがしかの柵の中で生きざるを得ないのだ。
望むにしろ望まぬにしろに関わらず、それが自由であり責任であり大人であるということだろう。

様々な柵を窮屈に感じ、脱したい時もあるだろう。
脱して良いんじゃないかと思う。しかし、それは自由を履行した際に生じる不利益を始めとした、諸々に責任を持てる人だけが持ちうる自由である。
非常に難しい話だ。
一人身の時にしか出来ないこともある。
所帯を持ってしか出来ない自由も…きっとある。
例えば子供関連はそうなんじゃないか。

きっと所帯を持つ者持たざる者との間にはそう言ったものが横たわっているはずである。勿論、所帯を持っていたとしても恵まれない家庭なぞ枚挙に暇がないほどあるだろうが。
そう言った家庭に子供が産み落とされることを祈る。

皆様はどのような柵を持ち、どのような柵から脱したいと願うのだろうか。
慧眼であったり、選定眼であったり女の勘であったり、囚われたくない柵を事前に察知し逃げ避けることも可能だが、その柵に敢えて身を投じるのもまた、自由である。
選択の代償は時間であり、時間こそが我々に与えられた平等のリソース。

これを投資に使うも、消費に使うも、浪費するも、全ては我々の裁量。
と、そう簡単には問屋が卸さないのも、産み落とされた家庭や囚われてしまった柵に拠ってしまうのが、何とも悲しき宿業であると、私はそう思うのだ。
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